教室だより1

専任講師陣によるエッセイ(毎月20日更新)

【連載第1回】

生徒がくれる「ナゾ」の裏にあるもの

 今から20年以上も前。当塾が、開室した当時の話です。

 わずか12名という生徒の中に、中学校1年生のT子さんという生徒がいました。いわゆるお勉強の苦手な子で、授業中の発言も少なく、いつも自信のなさそうな顔をしていました。私の担当していた数学でも、「学校の授業は早すぎて、よくわからない」と言っていました。塾の授業で、何とかもっていたようなタイプの子です。「わからない! できない!」とすねてしまうことも多かったのですが、それでも、根気よく付き合っているうちに、少し理解できるようになって興味がわいてきたのか、だんだん意欲を見せるようになってきたのです。
 ところが、このT子さんには、毎回の授業で、困ったことがありました。いつも鉛筆を忘れて、私のところに借りに来るのです。「いいかげんに、ちゃんと持ってきなよ!」と叱りたいのは山々でしたが、せっかく意欲が出てきたことだし、水を差してすねてしまっても困ります(とにかく、すねやすい子でしたから)。「まあ、いいか」と、毎回貸してあげていました。
 そんなある日のこと、何気なくT子さんの筆箱の中を見た私は、びっくりしてしまいました。なんとそこには、ちゃんと削った鉛筆が何本も入っているではないですか! えっ? どうして?

 私は、T子さんがくれた「ナゾ」の意味を考えているうちに、ハッと気がつきました。それは、「儀式」だったのです。「今日も、先生は、ちゃんと私の事を受け入れてくれるだろうか?」と確かめるための儀式…。
 T子さんは、勉強ができない上に、すぐにいじけてしまう子でした。学校の先生からは、「お荷物」と思われがちなタイプの子です。「学校では、彼女の居場所はない」というようなことを、同じ学校の生徒から聞いたこともあります。
 でもその態度は、自分に対する自信のなさの表れだったのです。心の中では、「どうせ私なんか…」という気持ちと「でも、受け入れてもらいたい」という気持ちの苦しい葛藤があったことでしょう。「きっと嫌われるに違いない…。でも、受けとめてもらいたい」という切実な願いの表れが、鉛筆を借りに来るという「儀式」だったのです。毎回の授業の始めに鉛筆を借りに来て、先生が貸してくれるのを確認すると、「ああ、今日も、私はここにいていいのだ」と安心し、授業に参加する自信を取り戻していったのでしょう。

 T子さんに限らず、小学校高学年や中学生になると、心の中の葛藤を素直に表現してくれなくなる生徒が増えてきます。しかし、「どうせ分かってなんかくれないだろう」という気持ちの一方で、「でも、分かってもらいたい…」という切ない気持ちもちゃんとあるのです。そんな時生徒は、「ナゾ」をくれるのです。
 大人が「ナゾ」を解いて、その裏に隠された意味や気持ちを理解してあげるとき、子どもは着実に一歩成長してくれます。「大人から子どもへ」の成長期には、こんなつきあい方をしていくしかないのでしょう。しかし「ナゾ」解きは、教師という仕事のやりがいのひとつです。難解な「ナゾ」ほど、解けたときの充実感は格別です。「あっはっは、君の気持ちはわかったぜ!」と叫びたい気持ちになるのです。それと同時に、そんな葛藤を抱えながら思春期の入り口にさしかかっている生徒の心を思うとき、いじらしくも感じます。

 子ども達の気持ちに寄り添って、歩んでいきたい。この気持ちは、20年前に今も変わっていないつもりです。なぜなら、それこそが、私が教師という仕事に魅力を感じる一番の理由なのですから。

萩原先生