教室だより137
専任講師陣によるエッセイ(毎月20日更新)
【連載第137回】
夢十夜と夏目漱石
読書の秋ですね。読書というのは本当に手ごろで安価、しかも一生長続きする趣味だと思います。私が中学生のころ「坊ちゃん」や「こころ」に出会い、漱石のファンになりました。その後は市立図書館の漱石全集の前に立ち、片っ端から読んでいました。一冊の本がとても大きく、文字を目で追うのが楽だったことを思い出します。(持って運ぶには少々重いですが)
その中で「夢十夜」は、おそらく一番短い短編集です。その名の通り十日分の夢が描かれており、一話ごとに漱石の夢の世界に引き込まれてしまいます。あらすじを書くのは、原文の内容を誤って伝えてしまう恐れがありますので、下に原文を載せました。
いくつかの漱石ブームがあり、文庫の全集を買ったりしました。漱石文学は素晴らしい点が多くあり、そのひとつは書き出しにあると思います。吾輩は猫である、の書き出しを知らない人はいないでしょう。夢十夜は「こんな夢を見た」で始まります。人物描写も秀逸です。登場人物を見事に描き分け、明治時代から百年たった現在でも全く色褪せません。
教科書の「こころ」の抜粋だけではもったいない。気に入った一冊を漱石の作品の中から探してみてください。
第一夜
こんな夢を見た。
腕組をして枕元に坐すわっていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然(はっきり)云った。自分も確かにこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤いのある眼で、長い睫(まつげ)に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な眸(ひとみ)の奥に、自分の姿が鮮かに浮かんでいる。
自分は透き徹るほど深く見えるこの黒眼の色沢(つや)を眺めて、これでも死ぬのかと思った。それで、ねんごろに枕の傍そばへ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。すると女は黒い眼を眠そうにみはったまま、やっぱり静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと云った。
じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せた。自分は黙って、顔を枕から離した。腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思った。
しばらくして、女がまたこう云った。
「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片(かけ)を墓標(はかじるし)に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから」
自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」
自分は黙って首肯うなずいた。女は静かな調子を一段張り上げて、
「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。
「百年、私の墓の傍(そば)に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
自分はただ待っていると答えた。すると、黒い眸(ひとみ)のなかに鮮やかに見えた自分の姿が、ぼうっと崩くずれて来た。静かな水が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じた。長い睫(まつげ)の間から涙が頬へ垂れた。――もう死んでいた。
自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った。真珠貝は大きな滑らかな縁の鋭い貝であった。土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした。湿った土の匂いもした。穴はしばらくして掘れた。女をその中に入れた。そうして柔らかい土を、上からそっと掛けた。掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差した。
それから星の破片(かけ)の落ちたのを拾って来て、かろく土の上へ乗せた。星の破片は丸かった。長い間大空を落ちている間に、角が取れて滑らかになったんだろうと思った。抱き上げて土の上へ置くうちに、自分の胸と手が少し暖くなった。
自分は苔の上に坐った。これから百年の間こうして待っているんだなと考えながら、腕組をして、丸い墓石を眺めていた。そのうちに、女の云った通り日が東から出た。大きな赤い日であった。それがまた女の云った通り、やがて西へ落ちた。赤いまんまでのっと落ちて行った。一つと自分は勘定した。
しばらくするとまた唐紅(からくれない)の天道(てんとう)がのそりと上って来た。そうして黙って沈んでしまった。二つとまた勘定した。
自分はこう云う風に一つ二つと勘定して行くうちに、赤い日をいくつ見たか分らない。勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い日が頭の上を通り越して行った。それでも百年がまだ来ない。しまいには、苔の生えた丸い石を眺めて、自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した。
すると石の下から斜(はす)に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺らぐ茎の頂きに、心持首を傾ぶけていた細長い一輪の蕾(つぼみ)が、ふっくらと弁(はなびら)を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹(こたえ)るほど匂った。そこへ遥かの上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴(したた)る、白い花弁(はなびら)に接吻(せっぷん)した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁(あかつき)の星がたった一つ瞬(またた)いていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。
藤田先生 |