教室だより184
専任講師陣によるエッセイ(毎月20日更新)
【連載第184回】
我執を去る
今日蒔いて明日実ることはないということを、植物を育てていると日々つくづく感じます。まずそれぞれの植物の特性を知り、時機に即した手をかけ、常に手落ちがないか振り返り、嵐が来たり日照りが続いているときにも今日は面倒だからと手を抜いたりせず、暑いの寒いのと文句を言わず、毎日顔を見て少しでも異変があればすぐ対処し、実りを迎えるまで心を尽くしてお世話していかねばなりません。私のような趣味で楽しんでいる素人でもそうなのですから、農家の方々はさぞ真剣勝負を迫られることでしょう。
しかしながらその際に、素人なりには真剣に考えて、「まあこんなもんだろう」と進めていくと、たいてい失敗の憂き目に遭うのも事実です。恙なく成長を遂げさせるためには、育て方をただ知っているだけでなく、様々な失敗も含めて経験を積まれ、智慧を蓄えられた長老の教えを請うことができれば、こんなに心強いことはありません。
楽器やスポーツでも、それは変わりません。まず我流を通すのではなく、指導を受けて、一定の型を徹底的に身につけることが圧倒的に有利であり、上達の早道、秘訣です。はじめから自由にというのは不可能であることは、何かを身につけたことのある人なら分かっているはずです。
そしてそれは、勉強でも同じことではないでしょうか。その場合もちろん、導く者が本当にできるようになる道を心得ていて、心から生徒の向上を願って指導に当たっていることが大前提ですが、習う側も自分考えに走っていないか自らを振り返り、怠け心などの我欲に囚われることなく、虚心に見極めて、心を決めたなら、我を抑えて、指導を受けていくことが、最上の策と言えるでしょう。
我、小我と大我、真我、如来我の区別はなかなか難しい問題で、そうたやすく大我の境地に到れるものでもありませんが、自分でやると決めたことを自分で貫いていくところに自由が存在しますし、自主的に行なっていく以上、そこには立派な自我があります。それ以外の我執はできるだけ削ぎ落としていくことが、かえって自我の確立につながります。「自分なんか」という自己憐憫も自分かわいいにすぎませんし、我慢もよく言われるように、自分に執着することから起こる慢心で、いつか爆発します。
言うは安く行うは難しですが、凡夫たるわれわれは、とらわれを捨てて、ともかく一歩踏み出していくことが道を切り開いていくことにつながる、と信じます。
塾長先生 |