高橋先生の部屋(バックナンバー4)
俳句日日録 その四 (二〇二三年十一月二十六日)
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 正岡子規
立冬のこの時期、季語としては秋の柿が、東京では食べごろです。
この子規の句は、多分世界で二番目に有名な俳句ではないでしょうか。一番は芭蕉の「古池や」、おそらく三番は同じく芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の河」」か、「静かさや岩にしみいる蝉の声」でしょうか。とすると、この明治の詩歌革新家・正岡子規の健闘が光りますね。それにしても、この「柿くへば」、つまり、「柿を食べたら鐘が鳴った、ああ法隆寺の鐘だな」というのは、だからどうしたと思いませんか。何でそんなに有名なんだか、よくわからない。
この、「だからどうした」、はよく考えると芸術全般に言えることです。「ジャジャジャジャーン」ってただの音だろう、だからどうした? 湖に浮かぶ睡蓮と湖面の光がきれいだけど、だからどうだというの? しかし、世界最小の詩形ともいわれる俳句では、殊に「だからどうした」感が強い。例えば、正岡子規の俳句方面の二人の素晴らしい弟子、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)と高浜虚子の代表句は、
赤い椿白い椿と落ちにけり 碧梧桐
流れゆく大根の葉の早さかな 虚子
どうです、なんとも「だからどうした」だと思いませんか。しかも二句共に感動を表す切れ字を使ってます。その感動は何なのでしょう。この問題は、私にとっても大きな問題なので、次回に持ち越しさせてください。さて、私自身も自分で作る俳句に対して、「だから何?」と突っ込みながらですが、この時期に私が作ってみたのは、
立冬五句
公園の丘枯れ芝と転げゆく
落葉松(からまつ)はしみじみ黄なる朝の霧
モミジバフウ濡れてはりつき踏まれ散る
熟し柿落ちて日の色をぶちまける
柿をもぐ登りて近きメジロたち
次回は一巡して立春の頃に。